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研究会報告「臨床家の加傷性と当事者性」(富樫公一先生)

2025年8月17日(日)19:30 – 21:30、オンラインで開催されたゲシュタルト療法研究会では、精神分析家・公認心理師・臨床心理士の富樫公一先生(甲南大学)に、タイトルのテーマでお話しいただきました。研究会報告を、会員の山本恵さんに書いていただきましたのでご紹介します。

山本 恵 


 先日、富樫公一先生を招いての研究会に参加した。治療者のもつ権力性や可傷性について講義を受けた。臨床家として、理論や技法よりも先にどのようにクライアントと出会うのか。「もしかすると違う宇宙では私が彼だったのかもしれない。そういった自覚を持つことを当事者性としたい」と富樫先生はおっしゃった。当事者性とは何か。違う宇宙はどんな世界か。考えだすとなんだか不思議な気持ちになった。 


 研究会の序盤で、当事者性について理解するのは少し難しかったが、治療者の可傷性については、ふだんの仕事でも感じることだった。クライアントの生傷にふれるのだから、当然相手には苦痛を伴うこともある。しかしその傷跡や痛みにふれている私たちも傷ついている。また、クライアントがよくならないとき、私たちは自分の人格を否定されたかのように傷つく。理論や技法を用いて積極的な治療を展開しようと悪あがきをして、さらにクライアントの心が離れることもある。ここで理論や技法を用いて、いかにも自分は正しいと主張するかのような態度で、クライアントの改善を要求する私たちは、権力者の顔をしていないだろうか。立ちたくても立ち上がれないから彼らはここに来たのだ。わかっているのに、クライアントの傷つきに放り出された私たちは、傷跡にさらされる苦痛に耐えきれず、専門性をふりかざして、「○○さんのここが弱点だと思うんですよ」と淡々と語る。もちろん、解釈や分析が有用な時もある。ただ、自分のプライドを守るためだけに、そんな傍若無人な振る舞いをしていることがないか。自分で自分を見つめなおすきっかけになった。


 研究会の中で、イスラエルでのカウンセリングのケースが扱われた。カウンセラーはユダヤ人女性で兵役を経験し、戦争での喪失体験もしている方だった。クライアントはアラブ人女性だった。互いに立場が違う。ケースを聞いている私からすると二人は相容れない存在のように思えた。戦没者追悼式の日とカウンセリングの日がかぶっていたため、カウンセラーはカウンセリングの日付を変更するが、変更する理由はクライアントに説明できなかった。クライアントはなにか事情を察したのかもしれない。わだかまりは語られないまま、クライアントによるカウンセリングのキャンセルが続いた。その後二人は偶然にも再会し、語り合う時間をとることができた。


 このケースで、カウンセラーはクライアントとのセッションの中で自分のトラウマに直面せざるを得なかった。自分の脆弱性に気づきつつも、目の前のクライアントへの傷つきに応じるため、カウンセラーは沈黙せざるを得なかったのではないかと感じる。どうしても越えられない壁はあるのではないかとも感じるが、富樫先生は「分断されるが、分断に立ち返ることは原点に立ち返ることでもある。なぜなら、分断は分断以前は同じ世界にいた可能性があったことをしめす原点だから」と説明された。分断以前の世界の可能性。それは言葉もないようなもっと原始的でべちゃくちゃとくっついて見えないような世界かもしれない。ぬるぬるとした血の温かさだけを感じる暗い場所かもしれない。もしかすると触っても何も感触が得られないような、音も反響もないような世界かもしれない。


 ケースとは全く関係の話だが、研究会で、イスラエルと聞いたときに、自分の中でじわりと汗ばむような感触がした。勉強のつもりで買った「とるに足りない細部」を読みかけのまま部屋のすみに置いていた。イスラエル軍によるベドウィン少女のレイプ殺人の真実を追い求めるパレスチナ人女性の小説だ。物語の中盤で、主人公はふだん行かない地区の資料館に行くために、同僚にわざわざ身分証を借りて、現地へ行く。資料館へ行くためにわざわざそんなことをするのか、と驚いた。また、身分証の検閲のシーンがリアルで、これが日常なのかと思うと苦しくなった。物語はまだ続くのだが、私自身が辛くなって中断してしまった。淡々とした描写と兵隊生活の殺伐さが妙にリアルで、苦しかった。自分を不誠実な人間のように感じた。読むべきだと思ったが、辛さが勝った。兵役を体験しながらも、クライアントと向かい合うために苦しんだカウンセラーの話を聞き、さらに辛くなった。私は戦争を知らない世代だ。なのに世界では普通に戦争が起きている。何かをわかったつもりで、多分何もわからないのだ。戦争資料館をすべて冷静に眺めて歩く人と、戦争資料館の内容が辛くて退室する人と、どちらが誠実なのか。私には答えが出ない。


 クライアントとカウンセラーの間に越えられない壁があるといった話から、職場で出会った少年を思い出す。あまり他人に関心がなく、表情も乏しい。人間があまり好きではないのだろうか。そんな印象さえあった。抱っこしても嫌がる。言葉をかけても、すっと視線を外す。発達障害児を支援する職場ではよくある風景だ。他者を認識したくないのだろうか。他の子が遊びに入ってきただけで、嫌がったり、怒ったりする。一人遊びを好んで、他人とあまり関わらない。少年は、なぜか絵本を読むと穏やかだった。職場にはいって、まもないころ、言葉も通じず、触れると嫌がる子ども相手に、どのように関わればいいのか、私は途方に暮れていた。何をやってもうまくいかないような感覚だった。私からすると、絵本は唯一の手掛かりだった。私は繰り返し絵本を読んだ。彼は嬉しそうにしており、自分から絵本をねだることも徐々に増えた。そんな彼が、図書館に返却するために職員が本を持ち出すと、泣いてしまうという話をきき、胸が痛んだ。同時に、表情の乏しい彼だが、人のぬくもりは感じているらしいと安心もした。歌は上手なのに、なぜ会話はしないのか。なぜ目を合わせないのか。私たちがしていることは余計なお世話なのか。ふちどられた外側だけをみている私は、分断の前で立ち尽くす。彼の実像を知りたくてふちどりをなぞるが、わからない、答えが出ない。とんとんと扉を叩いても、沈黙の空間が広がっているだけだ。


 カウンセラーか、クライアントか。どちらがどちらに割り振られるのかは神のいたずらだ、といった話を聞き、当事者性について想いをはせる。以前の職場は刑務所だったので、面接時間になれば、面接室に入り、受刑者と向き合い、面接をした。部屋に閉じこもり、相手の半生について聞き、事件に至るまでの詳細についてひたすらに聞く。ずっと聞いていると、時々私が「ふつう」なのか、彼が「ふつう」なのかだんだん分からなくなってくる。自分も同じ状況、同じ境遇であれば、彼と同じように愚かな真似をしたかもしれない。そう思うことはたびたびあった。事務室に戻ると、時々声高に「○○なところがあるのよ、だから彼はダメなのよ」という人もいた。でもそんな意見を聞くと、実は、自分の存在が危うく、「彼がダメな人間だから仕方ないんです。私は大丈夫なんです」と懸命に主張しているように見えた。相手を否定することで、私たちは自分の不安を打ち消しているのだろうか。「私と彼は違う生き物だ」、そう思い込んですべてを切り離したら楽になるのだろうか。本当に違う生き物かどうか。向かい合って話した私たちは、もう本当はわかっているのではないだろうか。塀の向こう側とこちら側の境界は意外と薄い。「わたし」とはどんな存在か。「彼」とはどんな存在か。ときどきわからなくなる。自分の足元がおぼつかないようなうっすらとした不安の中で、時々考えるのをやめた。どちらがどちらに属するのか決まるのは、神のいたずらだなのだろうか。ふと、シュレディンガーの猫の話を思い出す。ふたを開けるまでは、猫が死んでいるのか、生きているのか、わからないままだ。不確実な宇宙の中で、なにかをわかったふりをして、繰り返し扉を叩き続ける私たちは、猫がどうなっていたら満足するのだろうか。


 研究会の中で、「心理士は傷つきやすい」といった脆弱性の話をきき、なんとなく納得はする。陰と陽の太陰太極図(たいいんたいきょくず)をふと思い出す。まじりあう中で、私の中にクライアントの一部が生じ、クライアントの中に私の一部が生じる。どうしようもなく痛い、と感じるときもあるし、どうしようもない怒りがわくこともある。光が差し、彼の姿が見えた気がするが、それも陰影のはざまで見失う。そもそもカウンセラーを光と仮定し、クライアントを陰とみなす態度が尊大なのかもしれない。私たちは見えない姿をなぞってなぞって、浮かび上がってくるのを待つが、待つしかできない。汝と我の対話のように、やり取りを繰り返す中で、何かに気づくのだろうか。


 いや、むしろパズルのピースかもしれない。家でときどきやるパズルのピースを思い出す。夕日と湖のパズルが、綺麗で眺めているだけで楽しい。水面に映った雲と、実物の雲のピースは酷似していて、繰り返し触らないと区別がつかない。湖面のピースには言いようのない暗い影が広がっていて、輪郭が曖昧だ。その影を手掛かりにピースを分けるとうまくいく。しかし時々混じってしまう。普段の仕事もそうではないだろうか。空と雲のピースを集めているつもりで、実は湖面に移りこんだ幻の影を追っているだけかもしれない。私は自分のエゴや自分の思考や雑音をできるだけ消して、クライアントのそばにいようとした。それは全身全霊で相手の発する気配や気持ちを汲み取るんだという意気込みでもあった。なんとなくではあるが、そのほうが気配や感情をうまくとらえられる気がした。自分自身が湖面になって、相手の姿をとらえようともがいていたのだろうか。そんな気もする。わからないから聞いた。わからないから感じた。答えは出ないままだ。相手の気配を探るために自分のエゴが邪魔だと感じた。どこからが自分勝手な解釈で、どこからが誠実な対応なのか自分でもよくわからなかった。


 今思うと、全身全霊なんて息苦しい。何も聞いていなかったかもしれないし、何もわかっていなかったかもしれない。パズルのピースを間違えたとしても、パズルをする人からしたら、湖面の幻か実物なんてさして差がない。互いに溶け込むように美しい空と湖面を楽しむだけだ。そこまで考えてふと我に返る。湖面の幻がカウンセラーで、実物がクライアントなら、パズルを楽しむのは誰だ。それこそ神なのか。いやいや、考え過ぎだ。きっとヘーゲルのアウフヘーベンだ。テーゼとアンチテーゼの対立をどうにかして解消しようとするときに、我々は止揚する。きっと見えない誰かによって引き上げられるとき、止揚のエネルギーを感じる時に、きっと我々は上位の存在、神の存在を予感するのだ。

そこまで考えて私はまた懐疑的になる。果たしてそんなことあるんだろうか。湖面に移りこんだ姿?何を言っているんだ。緻密で美しい絵画のようなカウンセリングが果たして宇宙のどこかにあるのか。もし仮にそんなカウンセリングがあったとしても、自分にできてたまるか。私はせいぜいゴムまりだ。ゴムのように弾んで、彼らと遊んでいるだけだ。でもそれならそれで水墨画のように余分なものを一切そぎ落としたカウンセリングをできる人になりたい。そんな突拍子もないことを考え、また我に返る。当事者性はどこにいった。結局当事者性について、私はやっぱり全然わかってないのではないだろうか。結局あまりまとまりがないまま、カウンセラーとはなにか。当事者性とは何か。私はまた迷路に迷い込んでしまうのだった。

 
 
 

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