研究会報告「思春期心性について考える(岩宮恵子先生)」に刺激を受けて
- 事務局 JAGT
- 4 日前
- 読了時間: 3分
城戸俊介(つくばねカウンセリングルーム)

講師は島根大学特任教授で思春期臨床がご専門の岩宮恵子先生。
「思春期心性」とは、岩宮先生の定義によれば、他者に敏感に反応してしまい、非常に傷つきやすいこころの状態。思春期は”コドモ”と”オトナ”の間を、グラグラと行きつ戻りつしながら揺れ動くが、昨今のように情報過多で、常に変化に富んだ時代は思春期の心の動きにシンクロしているという鋭いご指摘があった。
つまり、今の時代を生きている私たちは、そうでなかった時代よりも思春期心性を持ちやすいのだろう。
先生は思春期がご専門だけあって、私が「聞いたことはあるけどよく知らない」言葉が飛び交う。「推し活」も「いつメン」はなんとなく意味が分かる程度にしか知らなかった。
「いつメン」でないなら傷つけるようなことを平気でしてしまう人、「いつメン」の予定調和を崩さないように関係を維持しようとする人は生きにくそうだ。
私は普段、精神科病院とカウンセリングルームの二足のわらじを履く心理師だが、思春期心性を持ったまま大人になった人とは、主に病院で出会うことが多い。
大人だが大人になりきれない、そんな人たちと会っていると、こちらのくすぶった思春期心性が揺さぶられて、反応する。これは行き過ぎた情動調律なのか、それともミラーニューロンがそうさせるのか。
ゲシュタルトと出会う前、カウンセラーとして、あるいは心理療法家として、私は思春期心性を持つ人とどのように出会っていたのだったか。
カウンセラーの仮面をつけてないフリをして会っていたのだっけ? 相手の心を構造化して「おれはもう、この人のことをわかっている。だから怖くないんだ」って思おうとしながら会っていたのだっけ?
自信のなさと言ってしまえばそれまでだが、どちらにせよ、「他者に敏感に反応して、傷つきやすい」。実に思春期心性的だ。
私はゲシュタルトのワークを受けるうちに、あるいはワークを受けたいという人と対峙するうちに、多少、思春期心性に反応する心を受け止められるようになってきた。
”私は私、あなたはあなた”
私たちが良く知っている祈りの言葉は、きっと思春期心性からの卒業に関係している。
思春期心性はまだ卒業の寂しさに耐えられないのだ。
先生は日々の臨床の中で「推し」について語ることが治療的だったと話された。
私はそれが少しわかるような気がしている。
何かについて話すのではなく、自分がいかに「推し」を好きなのか、そのことについて語るとき、会話から対話になることが想像されるからだ。
対話でこそ、言葉を通じて感情や経験が整理されるし、他者との関係の中で「理解される」体験が心の回復につながる。
ゲシュタルトをやっている私たちは、そのことを知っている。
ゲシュタルトを実践する私たちは、きっとこの揺れ動く思春期心性に出会ったとき、対話することを選べる。
カウンセラーや心の専門家などではなく、社会の仮面を外したただの私として対話ができる。
それこそ、思春期心性を持つ人が心待ちにしている水平性、コムニタスなのではないだろうか。そこにどっぷりと浸ってみて、寂しさに少し耐えられるようになると、激動にあふれる思春期からオトナになっていく。
これは思春期心性から抜けきらない、コムニタスでくすぶり続ける私の、他人事のようなつぶやきだ。




多様な価値、流動的な社会で安定した自我「私」でいられる「オトナ」とやらになるのが難しいのだと思います。
ゲシュタルト療法では社会がどうあろうと「私は私である」という実存主義や真の自己(authentic self)への目覚めを志向したワークをするのだと思います。
宗教的情緒、私を超えた何かに支えられているという受動的な安心感も大事なのかなと思いました。