<研究会報告:気功と心理療法―オンラインで探る、気づき・自発性・コンタクト― (濱野清志先生)>
報告:岡本太郎(こころの相談室en)
8月18日(火)
オンライン

濱野先生の気功と心理療法の講義と体験は、とても面白く、抵抗なくスッと沁みていくような経験だった。
一方で、感じたことはたくさんあるにもかかわらず、なかなか言語化がまとまらず、書き始めてから結局ひと月ほど時間がかかってしまった。それだけ、自分にとって今回の体験は、これまで関心を持ってきたことと深くつながるものだったのだと思う。
特に印象に残ったのは、気功とゲシュタルト療法がもつ人間観や身体観、そして実践のあり方が、驚くほど似ていたことである。もちろん、今回のテーマがゲシュタルトと気功の接点だったこともあると思うが、濱野先生自身も両者には似たところがあると話されていたと記憶している。
濱野先生によれば、気功とは、「いのちがすでに行っていることに気づき、それを妨げず、育てていく実践」であり、その実践の中核にあるのが「自発動」だという。
自発動とは、身体を意識的に動かすのではなく、例えばあくびやくしゃみのように、身体が自然に動いてくる、あるいは動きたがっている感覚やプロセスに目を向けていくことだという。いのちの働きは、意識的なものではない。人間は、心が生まれる以前、胎児の時から成長していく。その意味でも、いのちの働きの根幹には「自発」がある。ところが私たちは、そのいのちの動きをコントロールしようとする。
そうではなく、いのちが自発的に動いている部分に目を向けてみようという心が動いてくると、自分の身体との付き合いがよくなる。だから、コントロールするのではなく、自然に動いているものに従っていく。
この「いのち」への眼差しや触れ方に、僕はゲシュタルト療法との共通性を感じた。
ゲシュタルトも、私たちは人間である以前に生き物(有機体)であり、「私が身体を持っている、身体をコントロールしている」のではなく、「身体が私である」という前提に立つ。
感情や身体感覚は、有機体の語る言語。環境との関係の中で何が起きているのかを示すセンサーであり、生きるためのエネルギーでもある。社会や文化の価値観の中では、私たちはそうした感情や身体感覚をコントロールすることを学んでいく。しかしゲシュタルトでは、身体を十分に経験することを通して、自分が本当はどう生きていきたいのかに気づいていく。
そう考えると、気功とゲシュタルトのどちらにも、いのち(有機体)である自分が何を感じているのかに気づき、身を開いていく営みがあるように思う。
そして、私(自我・意識)といのちをつないでいく、そのチャンネルとして身体がある。
身体を通して「今ここ」に気づく
講義の中のワークでは、Zoomのギャラリービューを見ている時、自分の手や画面に映る自分を視覚で観察する時と、視覚を使わずに観察する時とでどのような感覚の違いがあるかを感じたり、ペアで間合いや距離を測りながら、自分の身体感覚がどのように動くかを体験したりした。
こうしたワークでは、ただ内観を深めるのではなく、現実や他者、場との関係の中で、自分の身体感覚に目を向けていく。そこには、現実から乖離しない「今ここ」の自己への気づきがあり、ゲシュタルトのアプローチに近いものを感じた。
その中でも、一番印象に残ったのは「自発動」のワークだった。
静かに座り、身体が動きたがっていそうなところに意識を向け続ける。そして、動いていくことも、止まっていくことも、そのままにして、身体に委ねていく。
僕にとっては、かなりゲシュタルトワークでの体験と似ていた。
身体に意識を向けると、いつも肩こりやこわばりが起きやすい左肩に焦点があたった。息苦しさとともに、左肩を中心に微細な動きが全身に広がっていき、深く息を吐き、停滞したエネルギーを全体に解放するような動きが起きた。
この時に生じた感覚や動き、そして身体感覚に沿っていく自分のあり方は、僕がゲシュタルトワークの中で身体に意識を向けている時に起きること、また、その身体感覚に沿っていく時のあり方と、ほとんど同じだった。
そう考えると、ゲシュタルトワークの中で、身体感覚やそこから生じる動きに身を任せていく時も、ある意味では「自発動」をしていると言えるのかもしれない。
ゲシュタルトでは、身体に感じられるエネルギーに気づき、それがダイナミックに動いていくプロセスが自然と起きる。そのような現象と、気功のような東洋的実践が扱っている現象に共通性があることを、理論としてだけでなく、自分自身の体感を通して知れたことは、嬉しかった。
共通性の先に見えた、気功という実践
もちろん、気功とゲシュタルトがまったく同じというわけではない。今回の体験を通して、むしろ違いや、新しい感覚も感じた。
気功は心理療法ではなく、身体を中心とした、あるいは「気」を扱う実践である。そのため、心理的な葛藤や課題を正面から扱うわけでは、おそらくない。
また、ゲシュタルトよりもはるかに長い伝統の中で培われてきた、多様な理論や実践、身体への繊細な注目の仕方があるのだと思う。実際、ここ1年ほど「意拳」という、身体の内観や気を重視する中国武術を学び始めたが、身体や姿勢への意識やエネルギーの通し方など、非常に段階的で緻密な要求があることに驚かされた。
そうした身体的な修練を重ねていくことで、いのちに沿った自分らしい在り方が養われていくのだろう。今回は、そのほんの一端に触れたに過ぎない。
それでも、気功を深めていくことで、自分との関係だけでなく、他者や環境との関係にも調和が生まれ、より柔軟になっていくような感じがして、ワクワクした。
そして、そう感じたのは、講義や体験の内容だけでなく、濱野先生自身の佇まいも大きかったのだと思う。
以前、他学会で拝見した時にも感じたことだが、スッとした透明感のある佇まいと、語られる言葉が、僕の中でぶつからずに入ってくる。緊張感もあまりなく、居心地がよかった。
「臨床家である濱野先生が気功をする意味は何か?」と質問した時、濱野先生は、気功そのものを臨床に用いることはほとんどないが、「気功的感覚で面接をしている」と話されていた。
気のつながりのようなものを感じながら、自分自身をオープンにし、力まない状態でその場にいる。クライエントが身体をゆるめたり、イメージを持ちやすくなったりするためには、安心感や安全感が必要であり、そのためにもセラピスト自身がその場で自分らしく居られることが大切である。そのために気功が役立っている、という話だった。
それを聞いて、もしかすると僕が講義や体験の中で感じていた“気”や安心感も、濱野先生自身のそうした在り方から伝わってきたものなのかもしれないと思った。
ゲシュタルト、気功、そして武道
僕はゲシュタルトと並行して、武道(空手)を長く続けてきた。現在は、両者を統合した実践にも取り組んでいる。
客観的に見れば、対峙的な空手と調和的な気功は、かなり正反対のものに見えるかもしれない。しかし、今回の体験を通して、主観的な身体体験の中で見出されるものには、意外な近さがあるのではないかと感じた。
そして、ゲシュタルトを含め、これまで自分が関わってきた実践に通じているものは「身体という自然を尊重し、そこに従うこと」だと感じる。
自然は、本来、支配できるものではない。
自然のプロセスの中に、私という存在は生きている。今回の講義資料のタイトルのように、「身体が先に知っている」のだ。だからこそ、その動きに謙虚に耳を傾ける必要がある。
そして、私は自然と無境界なのでもない。自然とつながりながら、社会や現実とも接している「私」として、どう生きていきたいのか。
その問いは、単に自然に還ることとは違う。ここは濱野先生も強調されていた。
身体という自然に耳を澄ましながら、他者や社会、現実との関係の中で、自分がどう生きていくのかを探っていく。
そこに、ゲシュタルトにも、気功にも、そして僕が武道を通して探ってきたものにも、共通するものがあるように思う。
自然も、私も、他者も、近代的な生活や情報にあふれた現代の中では、分断され、虚ろで希薄なものになってしまっているように感じる。
だからこそ、身体を通して「生きている」という感触を取り戻していく、これらの営みに、僕は強く惹かれるのだと思う。




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